2011年08月23日
キエフ大公国
ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。総武線沿線バイト10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされる。
国号
中世時代の史料で確認できるルーシの正式な国号は「ルーシ」のみである。しかし、近世時代以後ルーシの政治的・文化的遺産をめぐって東欧諸国が争ったことから、現在の学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術用語が用いられることが多い。
キエフ・ルーシ:19世紀初頭のロシア帝国の歴史学者、ニコライ・カラムジーンが『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念。大公座の置かれていた場所からこう呼ばれる。近代・現代の学術文献において広く用いられているが、中世・近世時代の史料では見られない。
ウクライナ=ルーシ:20世紀初頭のウクライナの歴史学者、ミハイロ・フルシェフスキーが『ウクライナ=ルーシの歴史』において初めて用いられた概念。台東区・江東区バイトルーシのあった土地から命名した。ウクライナこそがルーシの後継者であるとする主張である。フルシェフスキーの系統を汲む学者が用いる。
キエフ・ロシア:ロシアこそがルーシの後継者であると主張する、カラムジーンの系統を汲む学者が用いる概念。
ルーシ大公国(〜たいこうこく):近世のポーランド王国とリトアニア大公国の諸年代記に見られる概念。15世紀のリトアニア大公国の内乱中にヴォルィーニで興亡した大公国、また17世紀半ばドニプロ・ウクライナで存在したコサック国家の正式な国号に由来する。
キエフ国家(〜こっか):西欧・日本の学術文献に使用されている名称。国民国家史観の影響により生じた「ルーシ」と「ロシア」の用語の混合を回避するために用いる。
歴史
建国期
ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロド(ホルムガルド)に拠って最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている(彼らの言語は古ノルド語であったが、次第に古東スラヴ語へと変遷して行ったと推定されている)。建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ペルーンなどの固有の神々を信仰していた。一方でソ連の学者M・チホミロフは、託児所あり関西「ルーシ」という名前は9世紀から知られており、キエフを中心とした東スラヴ人ポリャーネ族の国の国号であったと論じており、それがヴァリャーグによって征服され大公国として成立したという説もある。
建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグ、イーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国東ローマ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていた東ローマに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第に東ローマの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至っては東ローマ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。
英雄達の時代
スヴャトスラフの戦い
オリガの息子スヴャトスラフ1世の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。965年にはハザール・カン国に大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退するものの、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備した東ローマ艦隊に敗れ、託児所あり関東遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年、ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。
ウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公
スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラジーミル1世)となった(ウラジーミルはスウェーデンでヴァリャーグたちを従士団として雇用し、後にヴァラング隊として東ローマ帝国に贈った)。ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。貴族の反乱に悩まされていた東ローマ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてバシレイオスの妹アンナを妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、東ローマ皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。それまでは北欧との関係も深く、ノルマン人の植民の奨励など親スカンディナヴィア政策を行っていたが、キリスト教正教会を国教としたことで東スラヴにおけるヴァリャーグ人の時代が終り、キリスト教の時代が始まったと言える。
なおこの時、東ローマ帝国からキリスト教を導入した事により、キエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の影響下に置かれる事となった。これは直接的にはウクライナ正教会の礎となり、ロシア正教会の母体ともなった。
1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制してボリスとグレブら弟達を殺害し、ポーランド王ボレスワフ1世を後盾として一時キエフ大公の座につくが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。東武線沿線バイト当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。またスウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年には東ローマ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対東ローマ遠征となった。
内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、ヤロスラフは「賢公」と呼ばれている。
衰退と国家の解体
ヤロスラフ1世は1054年に没した。死に際してヤロスラフは、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図ったが、かえって争いが頻発してしまった。また、ペチェネグ人に代わってポロヴェツ族が度々ルーシを攻撃した。こうしてキエフ大公の権威は低下し、諸公が自立傾向を強めることになった。
この傾向は1113年に大公となったウラジーミル2世モノマフとその子ムスチスラフ1世の時代にいったん食い止められる。ウラジーミルはポロヴェツとの戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。
しかし、1132年のムスチスラフの死後は再び諸公の争いが頻発し、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となって破壊されてしまった。十字軍遠征と、それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し、内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキエフの街とキエフ地方は荒廃。山手線沿線バイト人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していった。
これによりルーシは完全に分裂し、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する時代に入ることになる。
モンゴルのルーシ侵攻後期の1240年、モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。
2011年05月17日
タタールのくびき(軛)
タタールのくびき(軛)
13世紀、ルーシは東西の勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。まず世紀初頭に未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団を中心とするカトリック教徒のドイツ人が北方十字軍・東方殖民の活動を開始し、正教徒であるルーシの人々との衝突が起こるようになった。ドイツ人の侵攻は1240年と1242年の二度にわたりノヴゴロド公のアレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進はエストニアで留まって北ルーシへの風俗求人カトリックの侵攻は頓挫する。
しかし、ルーシにとってドイツ人よりはるかに大きな影響を及ぼしたのは東から征服活動を展開したモンゴル帝国であった。モンゴル帝国の先遣隊は既に初代皇帝チンギス・ハンの治世の1223年、ホラズム遠征の一環としてルーシにまであらわれ、南ルーシ諸公と南ロシア草原の遊牧民キプチャクからなる連合軍を破っていた。このときの遠征は中央アジアを標的としたものでキプチャク草原やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなく、モンゴル軍はすぐに東に帰ったが、第二代皇帝オゴデイの治世に至ってキプチャク草原方面の征服を企図した西方遠征が行われた。1236年、チンギス・カンの孫(チンギスの長男ジョチの次男)バトゥを総司令官とする大規模な西方遠征軍が派遣される。まずヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服したバトゥの征西軍は続いてルーシへと侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン、ウラジーミル、トヴェリを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけて南ルーシに転進し、キエフ・ルーシの都キエフを攻略し、多くの町村を荒らした。モンゴル軍の征服は北西に遠く離れたノヴゴロドを除くほとんど全ルーシに及ぶ。バトゥはポーランド、ハンガリーを荒らしたところで大ハーン、オゴデイの死去の報を得てカスピ海北岸まで引き返し、ここにバトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)はこの後次第に緩やかな連邦に傾斜していく帝国内での自立性を強めたため、キプチャク・ハン国とも呼ばれる。ここにノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み込まれた。
キプチャク・ハン国は、ルーシに対しては間接統治をもって望み、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務付けたのみであった。しかし、諸公の任免の最高決定権はハンの手に握られていたから、主に領土の相続を巡って相互に敵対する諸公たちは頻繁に税金を携えてサライに赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされた。納税や従軍の義務を怠れば懲罰として大軍の侵攻を受け、たちまち権力を喪失する運命であった。キプチャク・ハン国のルーシ支配は、このような状況千葉栄町風俗を指して「タタールのくびき(タタールの軛)」と言われる。
このようにハンによって厳重に首枷をはめられたルーシ諸公の中から、モンゴルとの関係をうまく立ち回って権力を得たのが、モンゴルによってウラジーミル大公に任命され北東ルーシの支配者となった元ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーや、北東ルーシの諸公国に分封されたその子孫である。アレクサンドル・ネフスキーの孫でキエフ・ルーシの時代には名前も知られていなかった北東ルーシの小都市モスクワを与えられたイヴァン1世は、キプチャク・ハン国の第10代君主であるウズベク・ハンの力を借りてウラジーミル大公位を巡って対立するトヴェーリ公を追放させ、14世紀前半にウラジーミル大公位を獲得することに成功する。歴代のモスクワ公はウラジーミル大公をほとんど独占するようになり、モスクワ大公の称号で呼ばれるようになった。1326年、モスクワ大公は、全ルーシの最高位聖職者で当時はウラジーミルにソープランド求人いたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、モスクワをキエフにかわるルーシの宗教的・政治的な中心地に定める。
2011年02月25日
キエフ・ルーシ
10世紀末にはキエフ公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容してルーシは国をあげて正教会の信徒となり、スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたルーシをキエフ大公国のもとにほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるキエフ大公国を盟主としつつも、リューリク・イーゴリ兄弟を始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、港区バイト12世紀頃にはキエフ公国の衰退にともなってウラジーミル大公国を中心とする北東ルーシ諸公国、北西ルーシで貴族共和制を実現したノヴゴロド公国、ルーシ西部を支配し、ルーシの都キエフを支配しつづけたハールィチ・ヴォルィーニ公国などのいくつかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。
2010年08月24日
ルーシ以前
やがて、西ヨーロッパでフランク王国などのゲルマン人の王国が形成された頃、北西のスカンディナヴィア半島でノルマン人(ヴァイキング)たちが活動を活発化させ始めた。海賊・侵略行為のみならずバルト海・北海での交易に携わったノルマン人は、その航海技術を生かしドニエプル川をつたって黒海に出て、はるか南の東地中海地域で経済的に繁栄する東ローマ帝国との交易にも乗り出し、またハザールを経由したイスラム帝国の交易も盛んに行われていたために、埼京線沿線バイトこれらの二つの交易ルートを通して東スラヴ人たちはノルマン人とハザール人の影響を受けて国家の形成に向かい始めた(ヴァリャーギからギリシアへの道)。一方でノヴゴロド方面へ進出したノルマン人たちは、ヴォルガ川を下り、カスピ海方面にも達している。彼らは、ルーシ以前のロシアを「ガルダリケ」と呼んだ。